置いてけぼりコアラ




「水って低いところへ向かって流れてるよね」
 唐突な質問。真剣な顔つき。じっと見つめてくる彼女。そして驚く俺。
 驚いてしまったので、思考回路が一瞬切れてしまったがすぐさま修復。この簡単な質問を理解してこう切り替えした。
「あ、ああ……そんなの当たり前だ。地球に重力がある限りな」
 そうだよね、とにっこり微笑む彼女。ロングヘアーで茶色い髪の毛がゆらりとなびく。
 理屈はわからなくても、小学校の低学年。いや、幼稚園児でも知っているだろう物事の理。
 そんなことを、彼女は聞いてきた。
 俺たちはもう高校生。
「風も気圧の低い方へ、力も子供や老人のように弱いもののほうへ。お金だけは例外で、上に流れるけどな」
 そう、お金だけは例外。
 権力の強い方へ、地位の高い方へと流れていく。そして高いところで溜まっているお金を目指して、さらに沢山のお金も集まる。金持ちは、どんどん金持ちになっていく。
 だけどもっと下に流れてくれてもいいと思う。そうすればサラリーマンをやっている父の稼ぎだけで、生活を組み立てている俺の家ももっと裕福になるわけだし、世の中の不平等も少しは解消すると思う。
 無理な話、か。
「だよね、でさ、前々から思ってたんだけど……」
 何か期待で満ちた子供のような目を向けてくる。きらきら、という擬音語がぴったりとあてはまりそうな、とでも言うべきか。
「時間はどうなの?」
「……ん?」
「ん? じゃなくて。だって時間も流れてるでしょ? 水と同じようなものだってよく言うじゃん。だから時間も下へ下へと流れてるのかなーって」
 時間と高さの関係。そんなこと生まれてこの方考えたことも無かった。
「なるほどな」
 確かに彼女の言うとおりだ。時間が水のようなものだと例えられるのならば、時間も高いところから低いところへと流れていることになる。
 ということは未来から現在、そして過去へと時間は流れているのだから未来が高くて過去は低いのだろうか。
 意味が分からない。自分が考えた理論を自分で分かっていない。高いだとか低いだとか、そんなこと時間には当てはまらないのではないだろうか。と言う考えが、ふらりと頭をよぎった。
「けどさ、こう考えてみると時間ってのも不平等だよね」
 彼女は俺の答えが出る前に、また口を開いた。
「早く死ぬ人も、遅く死ぬ人もいるのに時間は同じだけしか与えられないんだよ」
 何言ってるんだよ。
「逆だよ。時間が与えられるから、人の生き死にに早いや遅いがあるんだろ」
 彼女は何もわかって無いな、と思った。俺はちょっと得意げになった。
「そっか、なるほどー」
 感心したような声を出した。わざとらしくも聞こえた。
「なら私はもう蝉を可哀想なんて思わない」

 ……は?
 こいつは毎度毎度、何を言い出すのか。
「急にどうした? 悪いものでも喰ったか?」
 俺は彼女の顔を覗き込んだ。
 彼女は、というと、眉をひそめて口を尖らせていた。
 俺の発言が気に喰わないらしい。
「違うよー。だってさ、蝉って一年も土の中でいてさ。やっとお日様の当たる場所に出てきたーって思ったら、一週間で死んじゃうんだよ? めっちゃ可哀想だと思わない?」
 少し興奮しているみたいだ。声に力がある。
「まあ、ちょっとは可哀想だと思うな」
 一年という長い期間を考えれば、一週間は短すぎる。毎年蝉を見かける季節になると、こいつと断定できない誰かが口に出す話題である。
 またこの手の話題か、と思った。だから適当に肯定しておく。
「でしょ? でも時間なんて人間が作った概念じゃん。だから蝉は別に悔しくも悲しくも嬉しくも無いんだなって」



「ここで俺は目を覚ましたんだ」
「ふーん……、で彼女って誰?」
 村上は目の前に置かれているティーカップに指を通しながら、全然興味は無いんだよ、という風に聞いてきた。ここまでの話し終えた俺は、少しむっとして、
「夢なんだから知らないよ」
 とぶっきらぼうに答えた。
 またもやふーんと言いながら、村上はティーカップを口に近づける。
「こんな哲学的な夢を見て、そうしたら俺は子供の頃を思い出したんだ」
 村上の返事は無い。紅茶を飲みながら、携帯の液晶画面を見てボタンをカチカチと弄っているが、俺は構わずに続けた。
「そういえば、俺は子供の頃、コアラになりたかったなってさ」
 ぶふぅ――という音が聞こえて村上が背中を丸めたのはすぐだった。肩は小刻みに上下していて、テーブルの上には紅茶が少しこぼれている。
「こぼすなよ、汚いな」
「すまん、だけどお前の将来になりたいものが面白すぎて」
 ククク、と村上は笑いで顔をゆがめていた。
「でも、なんでコアラなんだ?」
 俺の話に興味がわいたらしい。今までに無い食いつきを見せた。
「いやだってさ、あいつらほとんど寝てるじゃん? あの頃はそれが羨ましいなって」
 小さい頃は、大真面目に考えてコアラという選択だった。幼いながら寝てばかりいるコアラに憧れたのだ。寝るのが好きだった。
 夢の中では空も飛べた。魔法も使えた。大富豪になって買いたいものも買えた。何でも出来たから。
「お前らしいよ。しっかし面白かったな。コアラだなんて」
 村上は、まだにやにやしている。
「で、今もコアラになりたいのか?」
 意地悪そうに方眉を上げて、意地悪そうに口元を少し吊り上げて、俺に質問してきた。
「馬鹿言え。もう俺も二十五だよ。あの頃はなんにでもなれると思ってたんだよ」
 俺も微笑を浮かべて答えた。
「今は人間の作り出した時間に縛られて生きているよ。結局コアラにはなれなかった。人間だったってことだな」
 俺は自分の掌を見た。コアラのとは似ても似付かない人間の手をしていた。もちろん、コアラの手なんてしっかりと見たことなんて無いけれど。

 藤村がテーブルに置いたティーカップが、カタリと音をたてた。





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