死 |
ねぇ、と弱々しくも荒い息を吐きながらも何とか言葉を口に出した。もう永くはない、そんな気がした。 だからこそ、全てを今のうちに伝えておこうと思った。今までの私の人生で一番嬉しかったこと一番悲しかったこと。 まだ言ってないことを言える分だけ言い切った。私にはない未来を2人に全て託した。 未練はなくはない。まだやりたいことはたくさんあった。それこそ私が60、70と生きていけたとしても。 けれど、それらは未練ではない。まだまだやりたいこと、挑戦したいことはたくさんあるとしても やらなければならないことは努めてきた。だから、本当にやらなければならないことは、彼らからもっと愛情を貰い 愛情を注ぐことだったと思う。こんな時代に、いやこんな時代だからこそ、稀有な恋ができたんだと思う。 私は心からそう思えた。 広樹は嗚咽を抑えきれないでいた。だが、周りにいた誰もそれを意識する様子もなかった。何故ならそこにいた 全員が彼とそう変わらない気持ちでいたからだ。多くのものが目を腫らし、泣き出すものも多くはなかったがいた。 別段そういった兆候が見られないものたちでもその表情は固かった。理由なんて単純だった。これは広樹の妻である 直美の葬儀だった。 人当たりが良く、礼儀も正しい直美の死は突然にやってきた。誰もがそれを予期することなんてできなかった。 突然の交通事故。後に聞いた話では即死だったらしい。かくいう私はいつもと変わらない日常を過ごしていた。 いや、過ごそうとしていたのだろう。彼女の死を受け止められず、ただただいつもようのに過ごしていた。 広樹はその頃から変わった様に見えた。仕方がない。最愛の妻を失ったのだから、二人はまだ充分に若かった。 私はよくは知らないが、二人は恋愛結婚だったらしく、その仲の良さは近所でも評判になるほどだった。 だからこそ、恋愛と親愛が絡み合い、広樹は直美という存在を追いかけざるを得なかった。 気付けば、広樹の体は痩せ細っていた。何も食べなかったらしい。いや、最愛の妻が何かしら作ってくれるのを ずっと待っていたのだろう。それに見かねた広樹の両親は、広樹を無理やりながらも入院させた。それでも、 広樹の顔からは生気が薄れていくのを止めることはできなかった。広樹は直美がいたからこそあれほどまでに 輝けたのだろう。だって、直美は広樹の妻だったから。 そんな広樹のために私は毎日に病院に通った。広樹のためならできることは何でもやった。その度に弘樹は 削がれた頬をなんとか緩め、微笑んでくれた。人は大切な人を失うとここまで弱ってしまうことを知った。 ある日、広樹は珍しく散歩をしていた。あれほど弱っていた体も最近は徐々に良くなっているようだった。 忘れた、わけではなかっただろう。けれど、慣れてしまったのだと思った。誰かがいないという世界に。 それでも、とりわけ夜に弘樹は泣いた。布団を被り、嗚咽を漏らさないようにすすり泣いた。広樹は 泣くことにも慣れてしまったのだ。誰かがいない寂しさのために。 そんな中、私は彼と一緒に散歩をしていた。しっかりと手を繋ぎ、もう大事な人をなくさないように。 それは弘樹にも私にも言えた。 「ごめんな。」 広樹が散歩中に発した言葉はこれだけ。しかも一回限り。ぽつりと私かそれとも広樹自身にか。 それは私には分からなかったけれど、とても大切なことのように思えた。 広樹の体調も徐々に回復し、ついには退院することになった。けれど、退院したところで彼の家には 以前のような光景は戻らなかった。私は心配になり、彼が家にいるときはほとんど傍にいた。彼が見せる のはただ寂しさばかりで、以前のような愛情を振りまく人ではなかった。 仕事を再開した広樹は深夜に帰ってくるようになった。徐々にいつもの生活に移行していく最中だからこそ、 直美の損失は彼にとって大きな痛手だった。家事をする人もいなければ、彼をいたわる人も私一人しかいなかった。 「なぁ。」 まどろみの中にいた私を広樹が呼び起こす。広樹はそれに、悪かったな、といいながらも話をやめる様子はなかった。 「母さんがいないと寂しいか?」 寂しかった。私は寂しかった。あの太陽を連想させる直美がいなければ私は泣きじゃくる子供でしかなかっただろう。 でも、それはなかった。それ以上に広樹が哀れに思えたから。可哀想に思えたから。だから、私は自分のことなど 放っておいて子供ながらも広樹に何でもしてやった。だから、そのときも広樹のことしか頭になかった。 「ううん。お父さんがいるから寂しくないよ。」 それは本心の半分。広樹がいるからこそ、直美がいない寂しさを何とか頭から払おうとしていた。まだ 私を愛してくれる人がいたから、まだ私を抱きしめてくれる人がいたから。そんな時、広樹はまた泣いていた。 珍しく私の前で泣いていた。 「ごめんな、ごめんな…」 広樹はしきりに私に謝罪をした。いや、違う。彼は自分自身に謝罪をしていたのだ。本来あるべき姿を忘れ、 ただ悲劇に浸ってしまった自分に。それは確かに広樹だったけれど、広樹はそれ以前に私の父親だった。 どうあってもそれは覆ることはなく、広樹は私のために強くなければならなかった。 それを境に広樹、いや父は変わった。母を失った寂しさは取り払われないけれど、私はそれ以上に彼に 愛情を注ぎ、彼から愛情を貰った。私が成人を迎えたときなど、酒を交わしつつ当時のことをあらいざらい 私にぶちまけていた。彼がどんな心境だったか。けれども、どんなに私を愛してくれていたのか。そして、 今だからこそこう思う、母の死は必然ではなかったのではないか。母が死ななければ、私は両親の大事さを おそらく理解できず、今を生きていただろう。だからこそ、私は今ここで礼を言おう。 「死んでくれて、ありがとう。」 ―後書き― 去年の元とは大分切り口の変わったものになりました。誕生日にこういうものはどうかと思いもしましたが、だからこそ これを贈らせてもらいます。日増しに書き方が変わっていっているので去年のものを見るとなんとなく自分も成長したな と思えることもあります。最後は先に見せた方から少々不満の声が上がったので修正しようと思いましたが、やはり これで行くことにしました。やっぱり、感謝の言葉は大事です。最後になりましたが、誕生日おめでとうございます。 2005.6.7 執筆終了 2005.6.19 贈呈 |