一般市民




「あるところにさ」
 黒いエレキギターの表面を、専用のきめの細かい布で念入りに拭きながら、君は口を開く。今日君は友達の家に遊びに来ている。自宅から徒歩五分であり、また趣味も似通っていると言う理由で、小学校以来の友達である神倉の家に、だ。
 君が話しかけた対象――つまり神倉聡はというと、大き目の巾着袋からくるくると丸くまとめられた二、三メートル程度のシールドを取り出して、今まさに三十センチ四方の安っぽいアンプと白いエレキギターとを繋ごうと、シールドのねじれを解いている。
 君も神倉も、ギターをやり始めて三年ほどになる。ほとんどは各々の家で個人練習をしているわけだが、月に何回か神倉の家に集まっては、こうやって合同練習をする。君にとっても神倉にとっても、そろって練習するのは独りで練習するそれよりも断然楽しいし、それ以上に相手のレベルも気になるのだ。
「一人の市民がいたんだ」
「ふーん、市民ねぇ……」
 アンプのつまみを回して音量や音の質を調節している神倉は、さもそんな話にはあまり興味がないよ、と言わんばかりに話を茶化した。それでも君は話を続ける。
「性別も人種もわからないけれど、そいつはさ、小さい頃からテレビだけを見て育ったんだよね。本も新聞もろくに読まない。ニュースで報じられたことが、この世界の全てだと思ってるんだ」
 君の話が神倉の眉をひそめさせる。君の方を向いた神倉は鼻で笑って低い声で一言、何の話だよ、とつぶやいた。
「あの小さなブラウン管、今じゃ液晶テレビとかプラズマテレビの時代なのかな。あの小さな枠の中のことだけが現実だと思ってるんだよ」
 相変わらず君は、右手に持った布で黒いエレキギターを拭いている。しかし視点はぼんやりと黒いエレキギター全体を捉えている。
「考えることも止めて、それ以上のことを知ろうともしなくなった。人間である事の一部を、自分自身で気づかないまま捨て去ったんだ。それがそいつの十五歳の終わり」
 神倉はうーんと唸った。
「話が突拍子過ぎて全く理解できないんだが、結局そいつは今何歳でどうなってんだよ」
 ピタリと右手を止め、うつむいている顔を上げた君はニヤリと口元を歪めさせる。
「どうなったと思う」
「さあ」
「僕になったんだよ」
 フフフ、と自嘲気味に君は笑う。
「は? それは貴方様がテレビばかり見て育ち、本にも新聞にもろくに目を通さないということでしょうか」
「そういうことでもございません」
「さっぱり意味が分からん」
 はぁ、とため息を吐いた神倉は、今しがたすべてのセッティングが終了したエレキギターを、肩からぶら下げた。
 君は――というと、先ほどまで止まっていた右手が、また、動き出している。
「そんな話置いといてさ、早く練習始めようぜ」
 そうだね、とまたぼんやりと黒いギターを見つめたままの君が答える。
 神倉の振り下ろしたピックが六本の弦を引っ掻いて、エレキギター独特の程よく歪められた音をかき鳴らした。うねった音が六畳ぐらいの部屋に響いて、そうしてそのまま消えていった。





 この作品はフィクションです。実際の人物名とは全く関係ありません。






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